歳を重ねると色々なことがありますね

共に同じ7/26(日)に、従兄弟お世話になった先輩が旅立ったようで、葬儀日程(7/28-29)が重なりました。
嬉しいことや楽しいことが重なるのは願ってもない事ですが、まさかの不幸がタブってしまうのは悲しいことですね。


その1つが、若い頃に一緒にミニバイクで出掛けたり、山登りしたことのある従兄弟のよしみつ(佳実)さんが亡くなりました。
残念なことに私より4歳ほど若くて、まだ年金取得申請もできない56歳くらいのようです。
私が子供の頃には、夏休みのような連続する休みになると彼の家に長期間滞在のお世話になっていたので、ちょうどその頃に私が電子工作で遊んでいたのを見ていたらしく、その方面に興味を持つようになって、就職先として選び長く勤めることになった会社に入社したのだと本人から聞いたことがありました。
元気だった彼は、5ヶ月ちょっと前には、私の母の法事で来てくれていたので、まさか交通事故以外での訃報を聞くとは思ってもいませんでした。
彼は1年ちょっと前には長く勤めた会社を退社していて、その後も同じアパートに継続して住んでいたようです。人生これからの時に若くして病気で亡くなるなんて本当に残念です。
これは彼の兄から聞いた話ですが、病院の色々な検査からはありえない数値を検出していたとのことで、数値の異常から判断してたぶん癌の末期だろうとのことですが、正式の病状はまだ出されていないと聞きました。レントゲンでは脊髄が融けたようにハッキリしない映像だったとも聞いています。また、兄の奥さんから時々背中が痛むと言う時があったようだとも聞きました。
彼の訃報を耳にした時、一緒に過ごした39年前の事を回想しました。私が公開しているプライベート写真集には、ミニバイクでの雪の残る日光ツーリングや北八ヶ岳の黒百合平までの山登り、蓼科山中腹の大河原峠周辺の散策が写されていました。
彼の若かった頃をみんなで偲びたいと思い、それらの写真を選別してA4の2枚にまとめて持ち、昨日お通夜に行って来ました。
佳実さんは私のプライベート写真の中で、1976年の写真の一部として、今後も生き続けています。


そして、2つ目に気が重くなる出来事が、長く勤めたOKIグループで良い事も悪い事も色々と教えて頂いた大先輩で、私が退社した後にも守衛さんとしてOKI高崎に務めていた林英樹さんの葬儀です。
私の周囲にはタバコを吸っていて、肺癌や肺気腫の診断を受けた人が数人いますが、林さんもその中の一人でした。年齢は私より5歳くらい上だと思います。 満65歳、旅立つにはまだ若い年齢です。
私が林さんにお世話になっていた頃は、バブルが弾けるよりも昔で、残業もそこそこあって、ストレス解消に高崎の繁華街を飲み歩くこともしばしばありました。机に向かった仕事で、少し離れていてもお互いに目が合って以心伝心で、その時の待ち合わせ場所の大半が煙がもうもうと立ち上り、視界が悪くて目が痛くなる悪環境のパチンコ屋でした。
林さんは、他人の面倒見がよく親分肌で、関西弁と言うより神戸訛りそのままの口調で、パチンコと酒タバコの好きな人でした。夜は、バー、(ピンクも含め)キャバレー、今は無いストリップ劇場(フランス座)、その他の居酒屋も含めて色々な場所で一緒に過ごした懐かしい記憶がよみがえります。
私がOKIを退社したのは、あの東日本大震災(2011年3月11日)が起き放射能拡散が騒がれた少し前で、もうすでに四年以上になりますが、その後もOKIにいる人や卒業した数人の人達に誘って頂き、林さんとは酒を酌み交わすことがありました。それらの人達と先日(5月14日)自宅に見舞いに行って、久しぶりに顔を見ることが出来たのがせめてもの救いだったと思います。
林さんが若い頃には、実家が神戸の山側で高級住宅街の一角にあった洋館で、すぐ裏には摩耶山がそびえ立つ絶好のロケーションで、西日本ツーリングの途中で滞在させて頂いた記憶がよみがえります。
私のプライベート写真集には、林さんと娘のミッちゃんが若かった時のまま収録されています。今後も私の写真集には、1980年夏の一部として生き続けていきます。
そろそろ準備して葬儀に出掛けないといけないですね。


林さんの葬儀から帰って来ました。
あの明るい関西弁でみんなから慕われていた林さんの葬儀なので、始まる前から大勢の人が溢れるように集まっていました。最後のお見舞いの時に奥さんからの言葉もあり、また本人の口からもまだ諦めたわけではないとの明るい言葉を聞き、近々この日が来るのはわかっていましたが、あれから2月半の歳月が流れ、林さんもよく頑張ったと思います。
受付を済ませて奥に進むと峯松さんと目が会いました。峯松さんは林さんと同じように高専を卒業して同期入社で、入社時から仲が良くお互い家族ぐるみでの付合いが今でも続いているようです。林さんの同期には、他にも長崎さんのような議員になった高専卒同期がいて、受付を手伝っていました。
峯松伸男さんは、私がOKIカスタマアドテックで退社する時には、副社長でした。今の近況を聞くと、あれから別の会社に移り、今は二社目になると言ってました。峯松さんは引き続いて東京に今も通っているとのことで、地方ではなかなか仕事が無いので当然だろうなと納得して聞きました。私の顔を見て元気そうで安心したとも言われました。
林さんも峯松さんも共に私がお世話になったOKI高崎の先輩達です。
林さんも峯松さんも私が入社した頃には、私が入社したのと同じ試験に所属していて、銀行向けのターミナルコントローラのようなソフト制御の機器を勉強させてくれました。
その後は技術センタに移り、ファームウェア開発を手掛けましたが、この頃に夜の歓楽街を楽しんだり、千倉に素潜りに連れて行ってもらったりしました。記録された写真は少ないのですが、1978夏に南房総の千倉に行っているようです。この時に食堂で食べた鯵の叩きが今でも鮮明によみがえります。
その後、林さんも私もOKIグループの中を色々と移動して、一緒になることも少なく、色々な場所で顔を合せても、短期間の出来事で飲むこともなかったような記憶があります。
そんな訳で、小さい頃にミッちゃんケンタロウと呼んでいた林さんの子供達にどのような字が当てられているのかも知りませんが、初めて見る大きくなった長男のケンタロウさんは林さんの若い頃に良く似た人でした。
林さんの弔辞は、峯松さんしかいないとは思っていましたが、入社して以来の林さんとの付合いに沿って述べられた言葉に、林さんの歩んだ試験、ファームウェア開発、東京でホンダのエンジン制御、東北への移動、OKIカスタマアドテック、高崎の守衛、と多くの部分が私の移動の記憶とも重なる部分が多くて色々な記憶をよみがえらせ、目が滲むようでした。
受付は新生活運動で済ませましたが、家に帰り小さく重い包みを開けてみると洒落た神戸のカスタードプリンが収まっていました。神戸出身の林さんに合わせて取り寄せたのでしょうか、とても品の良いお返しです。1980年の夏の記憶がよみがえりました。
私が会社に入った頃には、林さんと同じ高専卒同期が仲の良いグループを作っていて、試験の同じ職場にも那智滝の近辺出身の先輩で名前が確か中田さんだったと記憶している人がいたのを思い出しました。葬儀会場で見かけたことのある顔立ちの人だけど誰だったかなと思い出せずにいました。返って来て思い返すと、たぶんその方だったような気がしてきました。
私も長く勤めたOKIグループの人達が集まる葬儀会場なので、年齢を重ねて容姿が変わっていても、どことなく見覚えのある人が多くて、でもどこの誰だったのかが直ぐにはわからないのです。